蜆川(曽根崎川)

 難波や心斎橋のあたりを「ミナミ」と呼ぶのに対し、梅田や堂島あたりを「キタ」と呼ぶ。双方とも江戸時代からある呼び方であるが、先に発展していたのはミナミの方だ。


 ミナミは江戸時代からの歓楽街である。それは安井道頓が秀吉から土地を下賜されたことに端を発する。道頓は秀吉から与えられら土地を開発するために堀の開削に着手することにしたが、その半ばで大坂夏の陣で戦死する。道頓の遺志を継いだのは道頓の従弟である道卜で、彼の手によって完成された。これが道頓堀である。道卜はこの両岸に芝居小屋や遊所を誘致、それ以降、道頓堀の周囲(特に南側)は上方芸能の中心として発展していく。


 一方のキタはどうか。今のキタが発展したきっかけとなったのは1874年5月11日の大阪駅の開業だ。当時の梅田は市街地から数百メートルも離れた田園地帯で、水田や草地が広がる寂しい土地だった。それが、大阪~神戸間の鉄道開通と同時に大阪駅が開業すると、大阪環状線となる大阪鉄道や西成鉄道も開通、阪神電車や現在の阪急宝塚線である箕面有馬電気軌道も開通し、大阪最大の鉄道ターミナルとなった。その後は怒涛の勢いで都市化をし、大阪における一大繁華街が形成されていった。始まりこそミナミに先を越されたものの、その後の発展の勢いに関して言えば、キタに軍配が上がったとでも言うべきか。ちなみに余談ではあるが、私は個人的にキタの方が好みだ。


 さて、前述したとおり、キタと言えば梅田や堂島近辺を指すのだが、この辺りには「桜橋」や「浄正橋」といった名前の交差点が存在する。両方とも国道2号線の交差点でるが、地図で確認しても、そのような名前の橋は存在していない。そもそも、その交差点の付近は大阪有数のビル街で河川すら流れていないのだ。では、桜橋や浄正橋といった交差点名はどこから名付けられたのだろうか。


 実はかつて、このあたりに国道2号線と並行するような形で「蜆川」という川が流れていたのだ。そして、桜橋や浄正橋というのはこの蜆川に架かっていた橋の名前であるのだ。


 大江橋北詰交差点と大坂高等裁判所の間付近から堂島川の支流として分かれ、梅新南交差点を抜け、西へ弧を描きながら、関西電力病院を越えて、船津橋の手前で堂島川に合流するというのが蜆川の流れだ。元々はこの川こそが旧淀川の本流で、それを縮めて改修したことから「縮川」と呼ばれるようになり、それが転じて蜆川になったというのが川名の由来とされている。江戸時代の改修後、永宝8年に曽根崎新地が誕生すると、米蔵が立ち並ぶ堂島新地と料理店や旅館が立ち並ぶ曽根崎新地を両岸に抱え込むことになり、蜆川は大いに発展した。江戸時代を代表する浄瑠璃作家の近松門左衛門が書いた『曽根崎心中』や『心中天網島』のセリフにもその名前は登場する。


 では、なぜそれほど栄えた川が今現在は消えて無くなってしまっているのか。その原因となったのが1909年7月31日の早朝に発生した「北の大火(天満焼け)」である。北区空心町の家から出火した火は強風に乗って西へと大きく広がり、その周囲の建物を焼き尽くした。火が回ると予想された方角の建物を事前に破壊して延焼を食い止める措置もとられたが、それもむなしく約1万1365戸が焼失そ20町が破壊された。丸一日燃え続けた後に残されたものは瓦礫の山。これをどこに捨てるか悩み考えた場所が蜆川だったのだ。その後も、部分的に蜆川は埋め立てられ、蜆川は江戸時代の繁栄が嘘のようにその姿を消してしまった。


 現在の蜆川の起点には、附近に大阪地方裁判所や大坂高等裁判所が入る建物があり、その周辺も立体駐車場や雑居ビルが立ち並んでいる。その中で、蜆川の痕跡を探すとすれば、ちょうど蜆側が流れていた部分の区画が曲線を描いているという点である。何気なく街を歩いているだけでは気が付きにくいが、意識して見てみると、そこに川が流れていた(その川に沿うようにして区画を形成した)動かぬ証拠であることに気が付く。


 御堂筋と蜆川の交点には梅田滋賀ビルが建っている。このビルの足元には「しじみはし」の碑がある。そのまま、西方向へ梅田滋賀ビルの脇を抜けると北新地だ。北新地には、ここにかつて曽根崎川(蜆川)が流れていたことを示す碑と地図、説明書きが設置されている。また、北新地より大阪駅方面へ目を向けると「桜橋」という地名(交差点名)がある。これもやはり、蜆川に架かっていた橋の名前。今は交差点の名前として蜆川の痕跡はしっかりと残されている。


 かつての川沿いを西方向へそのまま歩いていくと出入橋に到達する。出入橋は梅田入堀川という運河に架かっていた橋で、梅田入堀川が埋め立てられた後も橋自体は残されている。


 さらにかつての川沿いを歩いていくと朝日放送の新社屋が見えてくる。地図で確認すると朝日放送の新社屋は蜆川の跡地に建っていることになるのだが、実際はどうなのだろうか。


 朝日放送の新社屋付近で福島方面へ曲がり、福島天満宮を横に見ながら少し歩くと国道2号線の浄正橋交差点だ。この「浄正橋」という地名もやはり蜆川に纏わるもの。それを示す石碑も上天神南交差点の南角に建立している。


 かつての川沿いをさらに歩いていく。浄正橋をより西へ来ると北新地の辺りとは違って住宅地といった街並みになってくる。パッと見る感じでは蜆川の痕跡は見当たらない。蜆川の終点附近である上船津橋(蜆川は上船津橋より東側で堂島川に合流していた)あたりまでくると、これといった痕跡は全くもって確認出来なかった。


 地名について数多くの本を出版し、日本地名研究所の所長である谷川彰英先生は著書の中で、蜆川が現在も残っていたならば、ミナミの道頓堀川のようにキタのシンボル的存在になっていても不思議ではなかった、と書いているが、私もそのような気がしてならない。そうなっていたら、キタの街並み景観は大きく異なっていたことだろう。


 水都とも言われる大阪には数多くの河川が流れているが、ときには何らかの事情で埋め立てられ、その姿を消した川たちのことを考えてみてもよいのではないだろうか。


【参考資料】

若一光司(2015)『大阪 地名の由来を歩く』ワニ文庫

谷川彰英(2013)『大阪「地理・地名・地図」の謎』実業之日本社


2017年11月19日 会長執筆

2019年1月17日 一部修正

近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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