八軒家浜船着場

 平安中期、皇族や貴族の間で熊野信仰というものが広まった。彼らは熊野本宮神社、熊野速玉神社、熊野那智大社で構成される熊野三山を阿弥陀信仰の聖地として参詣し、それは時代が進むにつれ武士や庶民にまで広がった。大勢の人が熊野三山に訪れ、それらの人々が通った道を「熊野街道」もしくは「熊野古道」と呼ぶ。熊野街道はさらに「伊勢路」と「紀伊路」に分けられるが、皇族が通ったのは紀伊路と呼ばれる道である。


 当時の皇族や貴族は京都に住んでいた。そこから熊野へと向かうわけであるが、当時の京阪間の移動手段の主流は淀川を行く船である。一行は淀川を船で下り、大阪の天満橋付近で下船した。この天満橋付近の船着場は、古くは「渡辺津」と呼ばれていたところで、その由来は、そこで淀川を渡る渡し船が通っていたこと。一行は下船後、熊野へ向けて陸路を行く。つまりは、この天満橋付近が熊野街道の起点となっていたわけである。


 渡辺津は後に「八軒家」と呼ばれ、江戸時代に大いに栄えた。京都の伏見と八軒家間を行き来する三十石船が発着し、人の乗り降りや荷物の積み下ろしが絶えず行われ、淀川流域随一の賑わいを誇っていた。ちなみに八軒家の地名の由来は、この周辺に八軒の定飛脚問屋、もしくは船宿があったからだという。


 三十石船は日本有数の交通機関として栄えたが、1870年に蒸気汽船が八軒家浜に就航するようになると、それらに役目を取って代わられ衰退。さらに、1910年に京阪電車が天満-五条間に開通すると、八軒家浜はその役割を失ってしまった。


 しかし、2008年に八軒家の賑わいを復活させ、水都大阪の象徴にしようという考えから、大阪府によって、京阪電車の天満橋駅に隣接する形で八軒家浜船着場が設けられた。新しい八軒家船着場には、かつて三十石船が発着して賑わっていたころの八軒家浜が詳しく書かれた説明書きや石碑が置かれ、訪れた人にその歴史を伝えている。また、附近には「川の駅 はちけんや」もオープン。現在、八軒家浜船着場には、大川を行く水上バスや観光船が発着し、水都大阪の観光名所のひとつになっている。

 今でも水都大阪を観光する多くの人々によって八軒家浜は利用されている。そういう意味では、かつての八軒家浜とは位置も、その役割も変わってしまってはいるが、その歴史は続いているとも言えるだろう。


 八軒屋浜から南へ少し歩いたところには、そこが熊野街道の起点であることを示す石碑も設置されている。今やオフィス街の様相を呈している天満橋や北浜。道行く人々の中でどれほどの人がこの石碑の存在に気が付いているだろうか。歴史は意外なほどに我々の生活に近いところにある。ふと足元を見れば、自分の立っているところに歴史が存在していたりするのだ。


 さて、かつて三十石船が行き交っていた頃にあった八軒家浜は今とは少し違うところにあるのだが、それは、現在の八軒家浜船着場から土佐堀通を挟んで向かいの部分だ。昆布屋の永田屋の店先にそれを示す石碑が建てられている。が、やはりまたしても、その石碑に気を留めるひとは道行く人の中に見受けられない。やはりこれもまた、忙しい喧噪の都会に、密かにささやかに歴史を示し続けているのだ。そして、たまにはそれに気付いてあげてもいいのではないか。



【参考資料】

若一光司(2015)『大阪 地名の由来を歩く』ワニ文庫


2017年11月16日 会長執筆

2019年1月16日 一部修正

近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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