膳所浜大津間 官設鉄道跡

 京阪電車とは文字通り、京都と大阪を結ぶ鉄道会社であるが、滋賀県内にも路線を持っている。御陵浜大津間の京津線と石山寺坂本間の石山坂本線である。


 今回取り上げるのは石山坂本線だ。あまり知られていないが、実は石山坂本線の京阪膳所浜大津間には日本の鉄道史にも残るような遺構が残されている。今回はそれらを取り上げてみたいと思う。


 そのためにはまず官設鉄道の歴史から振り返る必要がある。


 現在の東海道本線の前身である官設鉄道は、1874年5月に神戸大阪間を開通させると、1877年にはそれを京都まで延伸させた。さらに、その3年後の1880年にはさらに東の大津まで延伸させる。しかし、この大津は今現在のJR琵琶湖線の大津ではなく、京阪電車の浜大津のことなのだ。


 どういうことかと思われるかもしれないので、当時の官設鉄道のルートを説明する。当時の官設鉄道は山科を出て、逢坂山トンネルを抜けると東へカーブし馬場(現在の膳所)に至る。ここでスイッチバックをした上で、やっとこさ大津(現在の浜大津)へ至るというようなルートで官設鉄道は建設されたのである。


 では、なぜ馬場(膳所)でスイッチバックする必要があったのか。確かに、逢坂山トンネルを抜けた後は、現在走る京阪京津線のルートで真っすぐ浜大津方面へ向かえばいいのではと思うかもしれないが、そうしなかったのには理由がある。というのも、浜大津から逢坂山トンネルの入り口へは約1kmほどの距離であったが、高低差が45mもあったのだ。現代の鉄道車両ではそれほど問題のある勾配ではないのだが、当時の蒸気機関車ではこの勾配を克服することが出来なかった。そのため、やむなく馬場(膳所)でスイッチバックをして、大津へ向かうルートがとられたのである。ちなみに、この馬場(膳所)のスイッチバックは、諸説あるが日本で最初のスイッチバックと言われている。


 かつて、大正時代には、馬場(膳所)大津(浜大津)間を狭軌の官設鉄道と標準軌の大津電車軌道(現在の京阪石山坂本線)が乗り入れていた。そのため、三線軌条となっていたこともあったが、1969年に廃止され、現在は標準軌の京阪石山坂本線がそこを走っている。

 小舟入橋梁の「鉄道省」という文字を始めとして、石山坂本線の線路脇にはかつて官設鉄道が走っていた面影が今もいくつか残っている。石山坂本線の京阪膳所浜大津間のうち、石場浜大津間は湖岸道路と沿う形になっているので、官設鉄道の遺構をゆっくり探し歩くことが出来る。また、馬場(膳所)のスイッチバックや京阪膳所浜大津間の官設鉄道跡については京阪電車の特集ページにて地図や画像付きでわかりやすくまとめられているので、そちらもぜひ参考にして頂きたい。


【参考資料】

京阪電気鉄道(2017)「湖都から古都へ 鉄の路」

http://www.okeihan.net/recommend/mizunomichi/michiannai05_02.php

PHP研究所(2015)『関西圏の鉄道のすべて』PHP研究所


2019年1月29日 一部修正

近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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