地名探訪 「森小路」

 京橋から出町柳方面へ京阪電車に乗り、各駅停車で3駅目にあるのが森小路だ。


 地名としての森小路は森小路一丁目と森小路二丁目があり、大阪市旭区に位置する。付近は江戸時代には森小路村と呼ばれる村で、その村内には現在の京阪国道の元となっている京街道が通っていた。


 「森小路」という地名の由来としては、古くからこの周辺は榎の森があり、そこに小路が通っていたことによるものだと言われている。確かに、京阪電車で森小路のひとつ隣の駅名に千林、さらに3駅先に守口(森口)市があることからも、この周囲がかつては広大な森であったことは想像に難くない。しかし、周辺は完全に大阪市内のベッドタウンと化しており、そこが遠い昔は森であった痕跡は地名以外に残されていない。


 ちなみに、守口という地名の由来に関しても触れておくと、所説あるが、この辺りが生駒山地の原生林の入り口だったため「森口」と呼ばれていたのが、後に「守口」に転じたという説が有力である。守口や守口市駅前に残る京街道の遺構「文禄堤」について書いた記事があるので、そちらも参照されたい。


 隣の千林にはかつて「日本で最初のスーパーマーケット」として一時代を築いたダイエーの1号店があり、閉店した現在でも千林駅周辺に広がる千林商店街は大阪でも有数の活気ある下町的雰囲気の商店街として知られている。


 また、森小路には阪神高速守口線のICである森小路出入口があるが、他のICとは違い、守口線の本線から分岐し、森小路ミニPAを経て出入口に至るという造りになっている(正式路線名ではないが、この本線との分岐点から出入口までの区間は森小路線とも言われている)。なぜこのような構造になっているのかというと、かつてこの森小路出入口と阪神高速堺線の津守出入口をつなぐ新路線構想(阪神高速第二環状線)があり、それを前提として造られたためである。しかし、その後、ルートの見直しと変更によって森小路出入口は新路線のルートから外れてしまった。



 余談ではあるが、第二次大戦前に京阪電車は梅田方面へ路線を延ばす新線を計画していた(京阪梅田線計画)が、その計画は森小路で京阪本線から分岐し、梅田を目指すというものだった。もっとも、この当時の森小路駅は現在の千林駅のことである。この計画路線は森小路(現在の千林)から高殿、赤川を抜け、天神橋を経て梅田へ向かうというルートで計画が立てられており、その後、ルートの見直し(蒲生信号所で京阪本線と分かれ、桜ノ宮、天満を経て梅田へ向かうルート)など、着々と準備を進めていたが、昭和金融恐慌で京阪が経営不振に陥ったことにより計画は消滅してしまった。


 計画は消滅してしまったものの、一部では建設が進められており、「京阪電車乗越橋」など、大阪環状線の京橋大阪間ではその遺構をいくつか確認できる。大阪においても、京都においても、京阪電車は都市の中央部(梅田や難波近辺、京都駅近辺)に乗り入れていないが、かつてはそこへの乗り入れを目論んでいた証拠が100年近く経とうとしている今でも残っているのだ。


 【参考資料】

堀田暁生(2010)『大阪の地名由来辞典』東京堂出版

生田誠(2015)『京阪電車 街と駅の世紀』彩流社


2019年1月29日 一部修正



近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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