木津川駅貨物側線

 かつてターミナル駅だった面影が残る汐見橋駅から、大都会の秘境路線と言われる汐見橋線(正式には南海高野線)の2両編成の電車に乗り、芦原町駅を過ぎると、ほどなくして木津川駅に到着する。島式ホームと駅舎をつなぐ構内踏切。本線との合流部分がぶつ切りにされ、もう列車が来ることはないであろう2本の側線。そして、そこが駅前であることが信じられないような、草が生え茂る空き地が駅舎の目の前に広がる。これが大阪市内に存在する日本随一の「都市型秘境駅」である木津川駅だ。そして、この木津川駅は、かつてはこの駅を目指す列車が発着し、今とは比べ物にならないほど賑わっていた駅であったことをご存知だろうか。


 木津という地の由来を考えるには、聖徳太子の時代にまで遡る必要がある。かつて聖徳太子は大阪の天王寺付近に四天王寺を建てるにあたり、日本全国からその建設に必要な木材を集めた。そのとき、集められた木材を集積する場として選ばれたのが現在の木津川駅付近だ。また、駅の西側には土佐堀川から分岐した木津川が流れているが、この川は大阪湾の河口に近く、水深にも恵まれていることから古くより船舶の航行が盛んであった。それを考えると、「木」が「積」み上げられたことによって名付けられた説と、諸国から船舶で「木」が多く運び込まれた「津(船着場)」であることから名付けられた説、あるいはその両方が起因して名が付いたと考えられる。


 さて、話は木津川駅に戻る。


 南海電車は関西の私鉄としては珍しく貨物輸送をしていた。南海高野線の前身である高野鉄道の時代から貨物輸送は行われており、紀伊の国(木の国)である高野山で高野山森林鉄道によって搬出された木材は貨車に載せられ大阪へと運ばれた。その際、当初は高野鉄道の大阪側のターミナル駅である汐見橋駅に貨物を集積させようと考えられていたが、汐見橋は当時から既に栄えており、新たに入堀を設けることが難しかった。汐見橋駅は貨物の集積に不適であったのだ。そこで、その代替として選ばれたのがこの木津川駅だ。駅のすぐ西側を通る木津川からの入堀が設けられ、そこから大正の貯木場へ船などで輸送された。つまり、木津川駅に残る分断された側線は貨物兼旅客駅として栄えた時代の名残ともいえよう。


 本線との接続部分を文字通りぶつ切りにされた側線に列車が来ることは無い。隣に並ぶ現役の線路と比べると側線の線路は明らかにさび付いていた。また、そこから少し岸里玉出方面へ行ったところには、貨物用のホーム跡であろう遺構も残されていた。錆びた線路とともに、フェンスで囲われたホーム跡も木津川駅がかつて貨物の拠点駅だったことを今も物語っている。


2019年1月29日 一部修正

近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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