地名探訪「千本松」

 「めがね橋」という愛称の橋が大阪の港湾地区にある。ぜひ地図(航空写真)で確認して欲しいのだが、まさに「めがね橋」である。めがね、めがね、と考えながら見ると間を流れる木津川が鼻筋に見えてくるのではないだろうか。



 「めがね橋」の正式な橋名は「千本松大橋」。道路線名は大阪府道5号大阪港八尾線で、西成区南津守と大正区南恩加島間の木津川に架かるループ橋である。1973年に架けられ、高さは航路高33m、橋の両岸端部は二段螺旋構造になっている。交通量は多く、徒歩や自転車でも渡ることは可能だが、いかんせん高さがあるので渡るのに体力が求められる。


 もちろんこのような形状、高さになったのには理由がある。この千本松大橋が架かる周辺には工業地帯や造船所が多く、木津川河口部では大型船が多く行き来している。そのため、通常の橋では大型船が橋下を通行できず、架橋する際には大きく高さをとって架ける必要があった。その中で、交通面での不便を訴える周辺住民の要望(対岸に渡るには上流に架かる橋まで迂回する必要があった)により、橋が架けられることとなり、建てられたのが両岸に螺旋型のループを持つ千本松大橋である。


 そんないきさつで生まれた千本松大橋であるが、橋名が千本松というからには周辺に松林が存在しているのかと思いきや、そんなものはどこにも見当たらない。千本松大橋からやや東に位置する岸里駅、西天下茶屋駅周辺にも「千本」という地名があるが、やはりそこにも千本もの松林は見当たらない。では、どこから「千本松大橋」や「千本」といった橋名や地名が生れたのか。この由来を解き明かすには徳川家が世を治めていた江戸時代まで遡る必要がある。


 時は天保の大飢饉が起きる前年の天保3年(1832年)、当時の将軍は第11代の徳川家斉。幕府はこの木津川河口を長さ約870間の石堤を築いて整備したのだが、その際に、この周辺に幾本もの松が植えられた。この松林は、松が何百本、何千本植えられているように見えることから「千本松原」と呼ばれるようになり、そこから、「千本松」、「千本」という名が生まれたのだ。大阪市教育委員会によると、千本松の松並木は天橋立や美保の松原に並び称される松並木であったという。


 数多あるものが「千本」と表現されるのは日本語においてはよくあることである。誰しもが一度は歌ったことのある「指切りげんまん」の歌においても、その歌詞に「嘘ついたら針千本飲ます」とある。これは、実際に嘘をついたら針を千本きっちり飲まされるわけではなく、それくらい沢山の針を飲まされるくらいの覚悟をしておけ、という意味である。


 千本松原があった場所は、今現在では大阪の港湾エリアとして、大小の工場や倉庫群が建ち並び、そこを縫うようにしてトラックが行き来している。そういった場所が、200年ほど前は日本有数の景勝地であったということは、あまりに意外な知られざる事実だと言えるかもしれない。


 さて、千本松大橋の高さは先に説明した通りである。自動車では難なく通ることの出来る橋であるが、徒歩や自転車ではその高さゆえに、容易に通行することの出来る橋ではない。しかし、川を越えたい人全てが自動車利用者というわけではない。では、徒歩や自転車で川を越えたい人はどのようにしているのか。そういった人々の貴重な足となっているのが千本松渡船である。


 千本松渡船は大阪市が運営している公営渡船で、道路という扱いがなされているため、誰でも(大阪市民でなくても)無料で利用することが出来る。人間単体ではもちろんのこと、自転車ごと利用することもでき、車を運転しない高齢者や学生などを中心に、地元住民の足として航行している。全国的に渡船が廃止されてかなり久しいが、ここでは今もひっそりと小さな渡船が行き来しているのだ。


 この千本松渡船は、千本松大橋開通と同時に廃止される予定だったのだが、前述の通り、千本松大橋はかなり高い位置まで登るので、歩行者や自転車に乗る人々にとっては通行しやすいルートとは言えない。その点で渡船は随時、南津守側と南恩加島側を1時間に4本(2017年秋現在)往復しており、船に乗りさえすれば、あっという間に対岸へ着く。そのため、橋を登って渡るよりも所要時間も短く、手軽であるので渡船を残して欲しいという周辺住民の要望が強まり、一転して存続が決まった。同様な理由で現在も大阪港湾部には8ヵ所(全て無料)で渡船が今現在も残っている。


【参考資料】

堀田暁生(2010)『大阪の地名由来辞典』東京堂出版

若一光司(2015)『大阪 地名の由来を歩く』ワニ文庫


2019年1月29日 一部修正


近畿交通民俗学研究会

近畿交通民俗学研究会 日本遺構学会

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